にっぽん伝設紀行

青森県弘前市   旧弘前偕行社 facebook

戦時に将校たちが集い、学んだ建物が

当時の意匠そのままに残る「旧弘前偕行社」

令和の世に至る100余年もの間

建物はどんな変遷を見つめてきたのだろうか

屋根、外壁、軒などが建築当時の色に復元された現在の旧弘前偕行社

津軽を代表する 名棟梁・堀江佐吉の 遺作としても知られる

明治40年、弘前藩9代目藩主・津軽寧親の別邸跡地に新築移転された

「偕行社(かいこうしゃ)」とは、陸軍将校の親睦・互助・学術研究を目的とした集会所(将校倶楽部)として創設された学究組織だ。具体的には主に将校准士官などによる親睦や、「偕行社記事」の刊行、戦争犠牲者等の救済などが主な活動だった。「偕行」とは、詩経に収められている漢詩「修我甲兵 興子偕行※」に由来する。
陸軍創設まもない明治10年(1877年)に「東京偕行社」が誕生したのを皮切りに、やがて国内外各地の師団司令部所在地に広がっていった。ここ「弘前偕行社」もそんな拡充された拠点のひとつだ。

庭園を望む北廊下

「弘前偕行社」は当初、師団司令部の一室に置かれていたが、明治40年(1907年)に現在の場所に新築移転した。この地は弘前藩9代藩主津軽寧親(つがるやすちか)の別邸「富田御屋鋪」跡で、弘前市内でも屈指の名庭園だった。建設の翌年に御宿泊された嘉仁親王(後の大正天皇)はこの庭の悠々とした美しさをたたえ「遑止園(こうしえん)」と命名し、松をお手植えされたというエピソードも残る。建築工事を請け負ったのは「旧弘前市立図書館」や「旧第五十九銀行本店本館」、太宰治の生家としても知られる「斜陽館」なども手がけた津軽を代表する名棟梁・堀江佐吉(ほりえさきち)。堀江は完成前に病没したため、この弘前偕行社が最後の作品となった。

 

 

 

現代にあっても 多くの人の目をも引く 明治時代の「洗練」

暖炉を備えた客室

旧弘前偕行社はルネサンス風様式を基調とした、木造平屋建の洋風建築だ。特筆すべきはその規模の大きさ、そして要所に配された華やかな意匠だろう。正面中央上部の屋根窓、軒を支える持ち送り板、窓廻りの飾り枠や上部の破風飾りなど、その一つひとつが豊かな装飾を備えている。玄関ポーチには鋳鉄柱を用い、車寄せの妻飾りとして掲げた唐草模様と陸軍第8師団に因む「蜂」のレリーフが印象的だ。館内の窓ガラスは、気泡が入り波打った建築当時のものが残されているほか、各部屋の漆喰天井の繊細な中心飾りや、外国製タイルが張られた暖炉など、当時の洗練された

陸軍第8師団に因んだ「蜂」をモチーフにした妻飾り

空気感を今に伝えている。
昭和20年(1945年)8月に第2次世界大戦が終結し、日本軍が解体されるのと時を同じくして弘前偕行社も解散することとなる。管理者を失った弘前偕行社の建物は、戦後すぐに弘前女子厚生学院(現在の弘前厚生学院の前身)へ払い下げされ、その後、併設する「みどり保育園」の園舎としても活用されていたという。

建築当時の意匠を 細かく再現するための 大規模保存修理を敢行

書籍室にはこれまでの旧弘前偕行社の歴史を展示

旧弘前偕行社は利便性のために一部改修を行いつつも、明治時代の建設当時とほぼ変わらない姿で保存されている。偕行社の建物と庭園が一体的に現存しているのは全国で極めて珍しく、また、陸軍省営繕(えいぜん)組織による建築意匠を示すものとして平成13年に(2001年)に重要文化財に指定。さらに平成25年(2013年)には明治の建築当初の意匠に復原する大規模な保存修理事業等が行われた。
外壁や軒は薄いグレーと濃く深いグリーンに、鉄製の装飾も建設当時の色に戻された。また中央棟、東棟、西棟の各面の屋根を飾っていたドーマー窓(屋根窓)も復元。さらに床下から建築当初のものと思われる瓦が発見されたことから、屋根瓦もその瓦を参考に赤茶色に葺き替えられた。各室の内装も、床をタイル敷きからリノリウム敷きに変更するなど当時のものに復旧。レンガ塀には鉄柵が設けられた。
令和2年(2020年)より建物の一般公開がスタートすると同時に、今なお弘前厚生学院の現校舎として次世代を担う人材育成を行う教育施設となって活用されている。これからも地域のまちづくりや観光資源、知識や体験を共有するコミュニティの場として、この地に根ざしていくことだろう。

さあ「伝設」をその目で見よう!

  旧弘前偕行社

●住  所/青森県弘前市御幸町8-10
●開館時間/9:00~16:00
●休 館 日/火曜日・8月12日〜15日・年末年始
●見 学 料/300円
      ※18歳以下、70歳以上、
        障がい者は無料
●T E L/0172-33-0588

http://www.h-kaikosha.jp/

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