にっぽん伝設紀行

山形県三川町  アトク先生の館 facebook

総檜造りの平屋建て、銅板葺きの日本家屋
しっくりと風景に馴染む何気ない佇まいながら
美しく整えられた庭とも相まって建物には風格と威厳が漂う
昭和初期の建築と伝わるこの館は、
いったいどんな目的で建てられたものなのだろうか

重厚さをにじませる、純和風の館

町の篤志家として愛された「先生」の住む館

庭に面した廊下は東側が長さ約10m、北側が約7mの欅の一枚板を使用。

役場や公民館といった、町の主要施設が建ち並ぶ一帯に「アトク先生の館」と呼ばれる近代和風建築がある。施主である阿部家は庄内有数の大地主。百町歩以上の農地を所有し、190戸の小作人を抱えた資産家だ。先祖は元和元年(1615年)、宝谷村(現、鶴岡市櫛引地区の一部)より、他2人と共に入植したと伝えられる。「アトク先生」とは、入植祖先から数え10代目の次男にあたり、その飄々とした風貌から多くの人から慕われた阿部徳三郎氏の愛称だ。旧制荘内中学校(現・鶴岡南高校)を卒業後、京都大学、東京大学大学院、ドイツ・ミュンヘン大学等で修学した後、戦時中は一時、参謀本部勤務を経て、戦後は山形大学などでドイツ語の教鞭を執った。
設計は、皇室関係の建築も多く手掛けた宮島佐一郎だ。関東大震災で被災した宮島は、庄内に疎開しており、その際に縁が結ばれたようだ。館は昭和3年に完成。「建物の基礎に松杭を打つ」というアイデアは、震災で建物の倒壊を目の当たりにした宮島による、堅固さへのこだわりだ。時代的にはさほど古くはないが、伝統的な日本建築の「粋」を表した建物となっている。

今は手に入らない建材をふんだんに使用した贅沢な造り

障子や腰板には素材そのものの模様が美しい材を使用
丁寧な仕事がうかがえる末広張の廊下

建設当時の規模は現存部分の3倍以上の広さがあったという。着目すべきはその建材の贅沢ぶりだ。柱・鴨居などは松山産の檜材、居室の一部には秋田杉や薩摩杉を用い、また障子腰板は欅玉目・楓玉目・筍目など、素材そのものの紋様を活かした杉を使用。さらに庭に面した廊下には、贅沢にも欅の一枚板が用いられた。その大きさは東側が長さ約10m、北側が約7mというもので、このクラスの欅一枚板は、現在では入手困難ともいわれる建材だ。また意匠にも目を奪われる。事務室前東側の廊下は「末広張(すえひろばり)」という扇形に板を配した造りであり、これも現在の家屋ではめったにみられない、手のかかる仕事だ。庭に面したガラス戸は、それぞれゆがんだ面をもっており、当時のガラス製造技術の跡がしのばれるが、これだけの枚数がそろうのも珍しい。
大正12年(1923年)の関東大震災、昭和2年(1925年)の金融恐慌などが重なり、この時代は日本全体が不況の真っ只中にあった。そうした時勢にあって、当時の阿部家の経済力がいかに高かったかがうかがえる。

あのアカデミー受賞作の舞台にもなった!

庭に面したガラス戸には当時のガラスがはめられている

平成6年に徳三郎が亡くなった後、館は平成10年に三川町によって買い上げられた。その後、建物は改修を経て、平成11年8月に、三川町文化交流館として再出発を果たす。「アトク先生の館」という名称は公募で決められた。
ある時、三川町役場にさる映画のスタッフから「ロケ地を探している」という電話が入った。その際職員が紹介したロケ地候補に同館も含まれていたのだが、スタッフがこの建物を気に入り、同館での撮影が決まった。その「映画」とは、第81回米アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞した「おくりびと」だ。撮影は「仏間」をはじめ、館内のいくつかの場所で行われ、その内のワンシーンは日本版ポスターにも採用されている。
現在、三川町山野草愛好会が町からの指定管理を受け、管理・運営を行っている。建物はもちろん、庭園にはシラネアオイやユキモチソウ、エビネなど数十種類の野草が植えられ、開花時期の5月には例年、「春の野草を観る会」が開催されるという。
その人柄から町民に慕われたアトク先生。その存在は館を通じ、後世にも語り継がれている。

さあ「伝設」をその目で見よう!

アトク先生の館

●住  所/山形県東田川郡三川町
      大字押切新田字三本木118
●開館時間/9:00〜17:00
●休 館 日/毎週月曜日、年末年始
●見  学/無料
●T E L/0235-66-5040

https://www.town.mikawa.yamagata.jp/smph/kurashi/sisetu/atoku.html

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