にっぽん伝設紀行

山形県酒田市 舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓 facebook

山形県北部に位置する港町「酒田町」。
この地には不思議なことに、京文化の影響が色濃く残っている。
遠く離れた都の美意識が、この地になぜ根付いたのか。
その答えは、かつて航路で物資を運んだ「北前船」の存在にあった。

大いなる富と文化を都から運んだ西廻り航路の「北前船」

酒田では宴席での芸ではなく「場が華やぐ踊り」という意味で、あえて「舞妓」ではなく「舞娘」と呼称する

ときは江戸時代。地方で穫れた魚や米などは港に集積され、そこから船で江戸や大坂などの都まで運ばれていた。瀬戸内海を通り大坂・江戸へ向かうルートを「西廻り航路」、津軽海峡を通り江戸へ向かうルートを「東廻り航路」と呼び、中でも西廻り航路を走る船を「北前船」と呼んだ。
船の出入りが増え、港を通じた物資のやりとりが盛んになるにつれ、廻船問屋や商人といった、多くの豪商が生まれた。富を得た商人らが上方の先進的な芸術、芸能、文芸などを積極的に取り入れ、それらの文化はやがて、地方の生活に自然と根を張った。

趣き豊かな茅葺きの門構え

山形県酒田市もまた、北前船が寄港する港のひとつであった。最上川舟運によって内陸から米が、そして当時「一級品」として名高かった紅花が集積され、それを敦賀・小浜を経由し西へと運ぶ。まさに海上輸送の要所だったのだ。その賑わいは井原西鶴の「日本永代蔵」で、「西の堺、東の酒田」と並んで称されるほどであり、酒田の商人らは総じて莫大な富を築いたという。

京の絢爛豪華な料亭文化が酒田に根付き、花開く

また上方からは富だけでなく、多くの京文化も運ばれ根付いた。特筆すべきは料亭文化で、「諸国遊里番付」で「東の前頭7枚目」に上げられるほどのきらびやかさを誇ったという。これらの中で酒田商人たちが最も贅を尽くし作り上げた料亭が「相馬屋」だ。多くの文人墨客がここを訪れたといわれ、特に竹久夢二は3度も滞在をしたそうだ。最高の調度品を設え、贅沢な料理を供し、そして芸妓、半玉(はんぎょく)たちが、見事な三味線や小唄、踊りで場を盛り上げる。特に芸妓に関して言えば、当時の酒田花柳界は江戸や上方にも知られるほどのレベルであったという。

 長年、老舗料亭として商いを続けてきた「相馬屋」であったが、1995年(平成7年)に経営難により廃業。しかし「酒田の料亭文化を伝承しなくては」という思いから地元のリーディングカンパニー・平田牧場が買い取り、改修の末2000年(平成12年)に観光施設「舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓」として

紅花をイメージした朱色の建具や、金箔を貼ったレリーフなどが絢爛な印象

再オープンさせた。現在は良心的な価格で酒田舞娘の踊りと食事が楽しめるほか、歴史ある雛人形や樓主・新田嘉一所有の円山應擧、富岡鐡齋、竹久夢二の絵画といった古美術品などが展示されている。

明治時代の「粋」に現代の「モダン」が融合した建物

現在の建物は1894年(明治27年)に発生した庄内大地震の大火によって建て替えられたものだ。棟梁は酒田出身の名工佐藤泰太郎。唯一焼け残った土蔵を取り囲むように構成された母屋は、木造2階建ての寄棟造りとなっている。桟瓦葺の平入り。長い廊下に突き当たりを付け、その壁から中庭が見わたせる工夫は、「空間を含めてのおもてなし」という料亭ならではの粋だろう。

館内のいたる場所から中庭を見ることができる

改修工事総指揮を請け負ったのは戯遊詩画人・泉 椿魚(いずみ ちんぎょ)氏だ。かやを葺いた門構えの両脇には、特産品の紅花を思わせる鮮やかな朱の外壁がそびえ、門から玄関までのアプローチには扇型の敷石が続く。一歩建物に足を踏み入れれば、雛飾りを思わせる丸い燭台と漆塗りの床、松竹梅と扇・鼓をデザインした金箔のレリーフが迎える。 広間には「ますます繁盛(半畳)するように」との意味を込め、正方形でふち無しの紅花染め畳を敷いた。明治時代の構造や建具を活かしつつ、現代のきらびやかなモダンが溶け合う、まさに歴史を経てこその「贅」に満ちた空間だ。
かつての栄華を歴史に新たな息吹を吹き込み、この先も「価値あるもの」として引き継いでいく。ここには文化や歴史の重みとともに、多くの人の想いが託されているのだ。

さあ「伝設」をその目で見よう!

舞娘茶屋・雛蔵畫廊 相馬樓

●住  所/山形県酒田市日吉町1丁目2-20
●交  通/山形道酒田ICより(約8km)車で約10分
●営業時間/10:00~16:00 (舞娘鑑賞 14:00~要予約)
●休樓日/水曜日、年末年始、お盆
●入樓料/大人1000円、大・中・高校生500円、小学生300円、幼児無料

TEL.0234-21-2310 https://www.somaro.net/

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