にっぽん伝設紀行

秋田県北秋田市 阿仁異人館 facebook

東北のおだやかな山村にある日、西欧人たちによって見たことのない「新しい文化」がもたらされた。当時の人々は何を思い、そして何を感じたのだろう。この洋館を軸に、その景色にふれてみよう。

日本三大銅山のひとつに数えられた歴史を持つ鉱山

上部のアールが美しい窓

阿仁鉱山は1309年に金山として開発された後、銀、銅を産出するようになった鉱山だ。特に銅の産出量においては日本一と称された時期もあり、「別子銅山」「尾去沢鉱山」とともに日本三大銅山のひとつに数えられるほどだった。江戸時代には秋田藩直営で、多いときには幕府御用銅のおよそ5割を産出することもあったという。
「鉱山」とは言っても特定の山を指すものではなく、小沢、真木沢、三枚、一の又、二の又、萱草のいわゆる「六ヶ山」に向山金銀山、太良鉱山を加えた複数の山と「加護山製錬所」からなる、いわば産鉱施設の総称だ。明治初年には経営が藩から政府へと移った後、1885年(明治18年)にはそのすべてが古河市兵衛氏個人に払い下げられた。以降近年まで産出を続けていたが、資源の枯渇により1987年に休山することとなった。

 

西欧の技師らが日本へと運んだ技術と文化の数々

手すりに施された優美な装飾が目を引く
当時の意匠がそのまま今に残されている

さてここに阿仁鉱山の、そして町の歴史に影響を与えたひとつの洋館がある。1879年(明治12年)に来山した鉱山技師、アドルフ・メツゲルらの居宅として建築された建物だ。設計はメツゲル自身によるものと言われている。
ときの明治新政府は産業を興すため自ら鉱山を経営し、設備の近代化を目指した。そこでドイツより招聘されたのが、アドルフ・メツゲルをはじめとした鉱山技師たちだった。メツゲルらは採鉱設備を充実させ、製錬所・分析所を新設。その作業効率を飛躍的にアップさせ、産出量増大に大きな役割を果たした。
一方、技師たちの官舎として建築された洋館は、突如あらわれた「西欧文化の象徴」として、多くの人の目を引いた。ここでその建物を見てみよう。れんが造りの平屋建てで、屋根は切妻造り。壁は現在の下浜(阿仁河川公園付近)で焼成したれんがを積んだものだ。外観のフォーカルポイントとなる上げ下げ式の半円形窓。また外側は鎧戸、さらにその周囲を木造のベランダで囲み、その佇まいをより異国情緒漂うものにしている。
初めて目にする西欧人、そして西欧の文化に当時の人々が抱いたのは畏れであったか、憧れであったか。のちに「洋式建物の象徴」といわれた鹿鳴館やニコライ堂に先駆けて建てられたことでも刮目であり、当時の阿仁の人々に大きなカルチャーショックを与えたことは想像に難くない。その影響は鉱山技術にとどまらず、パラソル・革靴などの文化的変革も及ぼしたという。また技術革新の近代化が促されたため、電話や電気がいち早く導入され、さらには郵便局は秋田、能代、大館、本荘についで秋田県内で5番目に創立されるに至った。東北地方の山村に技術革新の波が一気に押し寄せたのだ。

 

町が変革していく当時の景色に思いを馳せて

室内の設えからも住時の暮らしがうかがえる

メツゲルらの離任後は、鉱山局起業課、迎賓館、宿泊施設などへと用途を変え、現在は「北秋田市阿仁異人館」として一般公開されている。かつては北秋田市消防署阿仁分署が建つ場所にもう一棟の外国人官舎が残されていたが焼失し、現存するのは一棟のみ。1956年(昭和31年)に秋田県の重要文化財に、1990年(平成2年)には国の重要文化財の指定を受けている。
鉱山の隆盛にともない、激しい文明開化のショックを受けた阿仁の町。当時の人々が見ていたであろうエキサイティングなその風景も、今となっては見知ることができない。ただ当時の痕跡をたどり、思いを馳せることはできるだろう。建物が眺めてきたその歴史を、一度訪ねてみてはいかがだろうか。


阿仁異人館

●住  所/秋田県北秋田市阿仁銀山字下新町41-22
●交  通/秋田内陸縦貫鉄道阿仁合駅から徒歩5分
●開館時間/9:00~17:00(最終入館は午後4時30分)
●休館日/月曜日(祝日の場合は火曜)
     年末年始(12月29日~1月3日)
●入館料/大人400円、大学生・高校生・専門学校生300円、小中学生200円
TEL.0186-82-3658

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