にっぽん伝設紀行

山形県鶴岡市 旧西田川郡役所・旧鶴岡警察署庁舎 facebook

明治の文明開化とともに、日本各地に出現した擬洋風建築。ここ山形県鶴岡市にも、シンボルとして親しまれる洋風建築が多く残されている。これらを産み出したのが、宮大工であった高橋兼吉だ。文明開化という時代の変革期に生きた名匠の、仕事ぶりをたどってみよう。

「文明開化」の下推し進められた洋風建築による町づくり

山形県北部に位置する庄内地方は、かつて戊辰戦争において官軍と対立。明治維新後も、この地には新政府に対する反感が根強く残っていた。こうした状況の下、山形県初代県令・三島通庸は「文明開化」を掲げ、各地に学校、病院、県庁、郡役所、警察署など、新たな機能を持つ建物を次々と建築していった。その際、すべての建物に貫いた定め事が「洋風建築であること」。そこには「従来とは明らかに見た目の異なる建物で町の景観を変え、新時代の到来を誰の目にも明らかにしよう」という三島の狙いがあったと言われる。山形県に数ある擬洋風建築の中で、最も古いと言われているのが1881年(明治14年)、鶴岡市に竣工した「旧西田川郡役所」である。木造の建物の中央部は2階建て。入母屋屋根の1階から最上部の時計塔まで積み重ねた塔屋は、まさに天守閣の趣きだ。この建物を手がけたのは高橋兼吉。当時では珍しい「自ら設計図を書く」大工であり、その独自性の強い擬洋風建築によって、その名を広く知られた人物であった。

確かな知識を元に自ら設計図を引き洋館を創り出す名匠

兼吉は1845年(弘化2年)、大工町(現陽光町)の大工職人・半右衛門の次男として誕生。父の下で大工仕事を学んだ後、余語與兵衛の弟子として修業し、その後は横浜で、佐野友次郎から洋風建築の工法を学んだ。誰もが「洋風建築」の何たるかを知らない時代。宮大工たちが、文字通り見よう見まねで建築に取り組む中、洋風建築の基礎を知る兼吉が手がけた建築物は、まさに異彩を放っていた。ここで今一度「旧西田川郡役所」を見てみよう。繊細な細工の吊り階段、瀟洒な佇まいのバルコニー、ルネサンス風の白い外壁。赤錆色の屋根は、明治維新後に取り壊された鶴ケ城(福島県会津若松市)の赤瓦を再利用しており、その威容をいっそう際立たせている。窓は庄内平野特有の強い西風を防ぐため二重窓に。郷土の気候にあわせた配慮も忘れてはいない。まさに日本における擬洋風建築の萌芽がそこかしこに感じられる。

庄内一と謳われる名建造物もまた兼吉の手によって

兼吉はこれを皮切りに、次々と擬洋風建築を竣工し、庄内随一の棟梁として名を馳せた。1884年(明治17年)に完成した「旧鶴岡警察署庁舎」は、特にこの一帯の擬洋風建築における最高傑作としても名高い。車寄せにバルコニー、白いペンキ塗りの板張り外壁。一見すると洋館然とした佇まいである。しかし屋根は赤瓦の入母屋造りで、さらに2階には鬼瓦と鶴の絵模様の妻飾りを戴く、和の趣きだ。この和と洋がしっくりと調和し、なんとも美麗である。こうして地方における洋風建築の開拓を担い、レールを敷いた兼吉であるが、晩年は和風建築に回帰。明治18年から9年間、宮大工として善宝寺五重塔の建築に携わり、その竣工を見届けるかのように、完成の翌年にあたる明治27年に逝去。享年50歳だった。

想いが形となり志が佇まいとなる建築に対し抱く理念

「建物は人がつくる」―兼吉の口癖として、今に伝えられている言葉だ。「建物には、建築に携わった人間の想いや考え方が自然と出てくるもの」という意味であろうか。「文明開化」を掲げる明治時代において、政府の肝入りで擬洋風建築に尽力した兼吉。その言葉を胸に置き、あらためて今に残る建築物を見れば、そこに「新しい日本」を創ろうとした、人々の強い想いがはっきりと感じ取れるように思えてくる。

※旧西田川郡役所と旧鶴岡警察署庁舎は重要文化財に指定されています。


旧西田川郡役所・旧鶴岡警察署庁舎
(共に現在は致道博物館内へ移築済)

●住  所/山形県鶴岡市家中新町10-18(致道博物館内)
●交  通/JR羽越本線鶴岡駅から湯野浜温泉方面バス10分
致道博物館前下車
●開館時間/(3月~11月)9時~17時 (12月~2月)9時~16時30分
●料  金/大人 700円、学生380円、小中学生 280円 ※団体割引有り

●休館日/12月~2月の水曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
●詳しいお問い合わせは/致道博物館TEL.0235-22-1199

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